January 30, 2019

Smarra

「夜を喰むスマラ」終幕しました。
ご来場頂きましたお客様、誠にありがとうございます。
またご来場叶わずとも応援してくださった皆様も。

久々に消耗しきって屍…
劇場公演が一年振りだったということや新たなテンプレートを実装したこともあるので、裏方作業としてもなかなか大変だった訳だが。
演者としても作り手としても、正直この作品への愛着が深すぎて、どう在っても納得に至らず本当に苦しかった。

わたしが初めてノディエの短編集を読んだのは実に20年も昔の話。
その日からずっと、憧れ続けてきた“スマラ”は既に人生の一部であったように思う。
わたし自身の技量が追い着いたと感じられる時が来たら、この作品を任せたいと思えるキャスト達との巡り会いを感じたら、必ずわたしの手で舞台化したいと思ってきたが、それはもしかしたら自分の演劇人生に終わりが見えたとき最期の作品として選ぶかもしれないと想ってきたところもある。

今回、わたしがこの作品に挑戦したいと思った切欠はほかでもなく、タイトルロールである“スマラ”を演じて頂いたMayuさんとの出逢い。
Mayuさんのあるナンバーをショウで観たとき、疑うこともなく“スマラだ!”と思った訳だね。
妄想のなかでぼんやりと描いていた妖魔に姿を与えてくれた、この人がスマラなら心臓を喰われても良いと思うほど魅せてくれるだろう。原作に描かれるそれは醜怪でおぞましい姿の怪物だが、わたしが舞台化するならばきっと麗しく魅力的なものにするだろう。
これまでも原作ものの公演がある度に思ってきたが、素晴らしい小説を板に載せるには言葉が野暮になる。言葉は“音”であり、美しい文章と心地好い音は異なる。だからこそ、舞台化には言葉を越えた存在が必要なのだ。

もう一人、確実に捕まえておきたかったキャストがフォーティス役・中川さん。
こちらも一年近く前からオファーしていた。
執筆も始まっていなかった当初、フォーティス(ポレモン)は“親友を庇って戦死する”以上の設定がなかった。
単純に“わたしを庇って死んでくれそう”という勝手な妄想のみでオファーしたが、普段が生命力溢れる中川さんが死霊の役というのは既に想像だけで胸が痛んだ。
結果としては、絶妙に生死の境、抑えた感情を演じきってくれ、改めてこの方の熱量や演者としての技量に感服することとなる。
この役は、本来人形のように美しく無機質であっても成り立ったのだろう。もっと身勝手な存在でも良かった筈の場面、しかしただ微笑むだけで思いやりを表現出来るのはこの方の天性の魅力だったのだと思う。
普段からとても仲良くさせて頂いていた人だけに、腕の中で息絶えて逝くフォーティスの様子には心が乱れ、芝居を超えたところでわたしを狂わせるに足るものだった。 
ご本人も、今回、最もわたしという演者の狂気に巻き添えを食ったのではないかな…

テッサリアの巫女三姉妹、ミュルテ・なっちゃん、テライラ・里仲さん、テイス・麻生ちゃんの役は、劇中でも言及していた“パリスの審判”三女神(アフロディーテ、ヘラ、アテナ)の比喩。
この三人の個性の違いも、設定を超えた部分で非常によく出ていたのではないかな。
現実世界でのわたしの妻・リシディスをなっちゃんが演じてくれたことにも深い意味がある。
原作ではニンフであった姉妹の、浮遊感や美しさもよく出ていた。

実に10年振りの再会を経た、プレゴン・小池さん。
動きを集中して作りたい為もあっただろうが、二回目の稽古で台本を離してきた強者。
見惚れるほどに、これまた絶妙に“馬”でした。

恐ろしいほど研ぎ澄まされたセンスの良さで魅せてくれた楽隊のお二人。
台本を読み込み、心地好い伴奏を入れて盛り上げてくれたしんたさん。 
わたしの好みを熟知しているようなまどかさん…
今回、わたしから指定の曲は後半のダンスに使用したヴィターリの“シャコンヌ”のみ。これは、この原作から派生した作品「震える砂塵」で使用していたもの。
もう一曲ダンス曲を、とお伺いしてまどかさんから提案して頂いたのが、クライスラーの“前奏曲とアレグロ(通称ミシミシ)”、わたしが大好きなヴァイオリニストの川井郁子さんが“サンクチュアリ”というタイトルで編曲していたもので、音源を頂いた時に大興奮で即決した。
この2曲は、わたしがこの作品を上演するにあたって後押しとなった、上田遥先生の「サロメ(初演)」に非常に効果的に使われていた曲。
まどかさんは、以前からわたしの思い入れのある曲に何故か通じてしまう不思議な力がある。

今回で役者休業となる劇団員・乃々雅さんのメロエ。
実はわたしはメロエを心底愛している。ノディエの原作でも「黄金の驢馬」でも、彼女は単純に加虐的な美女という記述しかないが、今回元は偉大な女神であった設定を加えたことでかなりドラマティックな存在になっただろう。
役への愛故に、相当煩いことも言ったと思うが、終演した今は素直にこの役を具現化してくれたことへの感謝を覚えている。

そして、わたしの演じた“ルキウス”。
ルキウスとは、名前のようでそうではない“存在”。
わたしはこの役のなかで“芝居”を超えた“存在”に成りたかった。 
自らにこの役をあて書き、演じるのは、静かに壊れ、自分の闇を晒け出す変態の所業…
けど、わたしはこれを、まるで使命のように演じなければならなかったのだと思う。
朝霞ルイという役者に惚れ込んだ脚本・演出家である自分と、それに呑まれながら闘う“朝霞ルイ”との一騎討ちでもあった。
愛、苦悩、哀しみ、妬み…わたしの欲望の総てが“ルキウス”だった。この半身、この傷は、きっと一生忘れない。
“スマラ”という作品は、わたしの夢、そして狂気の具現であったのだろう…

過ぎてしまえば瞬きの間ほどに足早に通り過ぎていった日々。
執筆しながらも、時を越えた芸術の繋がり・連なりを噛み締めていた。イシス女神の為にアプレイウスが「黄金の驢馬」を書いたのが二世紀、それに着想したノディエが吸血鬼伝承と抱き合わせて書いた「スマラ-夜の霊-」、それらに魅せられたわたしが神話のエピソードとヴェネツィアの歴史を織り交ぜて書いた「夜を喰むスマラ」…総ての想いや歴史を背負いきることは出来なかったのかもしれない。けど、この作品を機に原作や時代背景に興味を持ってくださったお客様が多かったことは物凄く嬉しかった。

「夜を喰むスマラ」のテーマのひとつとして“赦し”というものがあった。わたしは常々“愛は赦し”と思っているが、一見歪にも見えたあの世界を絶妙な力で支えていたのは愛故の赦しの数々。
女神達の崇高な愛、故郷への愛、友愛、家族愛、言葉を超えた感情…様々な愛のかたちと、衝突と哀しみの果てに在る赦し。そういったものを感じて頂けていれば幸いです。
これらはきっと、原作から読み取ったものではなく、今を生きるわたしが常に感じていること。舞台化にあたり、新たな設定を盛り込むことで自然と作品に現れてきたものを、素直に表現した。
当初の設定やト書きを飛び出した部分も多々あったけれど、あくまで自然に、いま、心に忠実に、この作品をつくりたかった。

今回は演奏も総て効果音に至るまで生音に拘り、キャストの声さえも環境音のように演出し、原作が在り演劇がメインでありながらも言葉の力を越えた表現を、無論セットの転換も総て人力に頼り、“芝居”がエンターテイメントではなく神事であった古代を意識したつくりに拘った。
今を生きるわたしが、本当に求めていた舞台芸術の深淵に近いものをお見せ出来たのではないかと思う。

LesMiroirsは“耽美”と称されることが多いのだけれど、それは見た目の美しさや装飾的な台詞まわしだけがそう見せているのではないと思う。持ちうる総ての感性で美しい幻を信じる透明な心、様々なツールが発達しているこの時代に敢えて演者の技量だけで魅せる職人めいた不毛なような挑戦をする姿勢、こういう頑なさが劇団の核ではないかと思う。

拘りと愛こそが美しい、その究極が“耽美”。

いつの世に在っても、人の心を動かすのは人でしかない。当たり前のようだが、芸術家の端くれとして再認識する機会になったと思っている。

この作品をどうしても最高のかたちでお客様にお届けしたく、一年以上の準備期間を設け、かなり早い段階から各出演者へオファーを掛けてこの贅沢なキャスティングが実現した。
この面子が集まってくれたのもLesMiroirsならばこそだろうと、そこは本当に一番自慢したいところ。
作品に関わって頂いた皆様の力・想いが、今回得た最高の財産。
沢山の我儘に付き合って頂き、わたしの夢を叶えて頂き、ありがとうございます。

作品は終幕しましたが、
皆様の心の鏡(miroir)に、
あの日舞台に降り注いだ青い花弁のように、
忘れ得ぬスマラの爪痕のように、
この夢の物語が、果てぬ記憶として染み渡っていきますことを…

心からの感謝と、限り無い愛を込めて…

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◇所属劇団◇
幻想芸術集団 Les Miroirs

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alf_maria_lully at 04:05│Comments(0)

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